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大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)

大聖勝軍寺
(だいしょうしょうぐんじ)

 

大聖勝軍寺
(だいしょうしょうぐんじ)

八尾市太子堂3丁目-3-16
聖徳太子が、物部守屋と戦った地に建てたとされるお寺。太子が守屋との戦いに敗れて危機が迫ったとき、椋木が破れて太子を隠したので、その恩に報いるために創建されたという。
 
本堂の聖徳太子壁画

本堂の聖徳太子壁画

 

本堂の聖徳太子壁画

 
八尾市太子堂3丁目-3-16
大聖勝軍寺内にある本堂の奥の壁にある大きな聖徳太子の肖像。
 
神妙椋樹(しんみょうりょうじゅ)

神妙椋樹
(しんみょうりょうじゅ)

 

神妙椋樹
(しんみょうりょうじゅ)

八尾市太子堂3丁目-3-16
聖徳太子の軍勢は、強力な兵力を誇る守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った。まさにそのとき椋の大木が真っ二つに割れ、その幹の空洞に身を潜めた太子は九死に一生を得た。
 
平和塔

平和塔

 

平和塔


八尾市太子堂3丁目-3-16
太子を救った椋樹のそばに建てられた仏塔。守屋の像と太子の像を敵味方の区別なく安置し、和の心を後世に伝えている。「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の理念の現れ。塔内壁面には、戦いの場面や物部氏の仏教排斥の光景が描かれている。
 
守屋池(首洗い池)

守屋池(首洗い池)

 

守屋池(首洗い池)


八尾市太子堂3丁目-3-16
聖徳太子の命より、迹見赤檮(とみのいちい)が鏑矢(かぶらや)で木の上から指揮をとっていた守屋を射た。秦河勝(はたのかわかつ)が落ちた守屋の首を取り、聖徳太子に献上する際に、ここで洗ったとされる。
 
 
鏑矢塚(かぶらやづか)

鏑矢塚(かぶらやづか)

 

鏑矢塚
(かぶらやづか)

八尾市太子堂3丁目-3-16
迹見赤檮が守屋を射た鏑矢が落ちたところで、ここにその矢を埋めたと伝えられている。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形をしている矢のこと。
 
物部守屋大連墳(もののべのもりやおおむらじふん)

物部守屋大連墳
(もののべのもりやおおむらじふん)

 

物部守屋大連墳
(もののべのもりやおおむらじふん)

八尾市東太子2丁目
排仏派(神道派)の物部守屋の墓。神道擁立を旗頭にした彼の墓の整備に際し、全国の神社が協力しており、玉垣は神社の寄進となっている。神社庁所有地。
 
稲城址(いなきあと)

稲城址(いなきあと)

 

稲城址
(いなきあと)

八尾市南木の本7丁目 光蓮寺門前
物部守屋が聖徳太子との戦いのために築いたとされる稲城跡。稲を積んで守りの砦としていたもの。聖徳太子が物部守屋の館があった渋川の家を攻めたとき、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて抗戦したといわれている。稲城は稲で囲った城とか、稲積みの城であったとか伝えられている。日本で最初の城という考え方もある。
 
愛宕塚古墳(あたごづか)

愛宕塚古墳(あたごづか)

 

愛宕塚古墳
(あたごづか)

八尾市神立4丁目
古墳時代後期(6世紀ごろ)の古墳。聖徳太子は6~7世紀の人物なので、ちょうどその時代。高安古墳群の中で最大規模。さらに、府下で見つかっている6世紀の古墳でも最大級の石室で、副葬品からも非常に有力な人物の古墳と考えられている。府指定文化財。(現在は、平成30年の台風の影響により危険な箇所もあるため立入禁止としている。)
 
教興寺(きょうこうじ)

教興寺(きょうこうじ)

 

教興寺
(きょうこうじ)

八尾市教興寺7丁目21
聖徳太子が物部守屋の討伐後に、太子の陣所であった場所に588年、四天王寺と同年に建立したのが始まりといわれている。境内には大きなクスノキがある。

信貴道(しぎみち)

信貴道(しぎみち)

 

信貴道
(しぎみち)

八尾市高安町北6丁目
聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願するために登ったとされる道。太子は信貴山で戦勝祈願のために四天王寺像を彫刻したと言われている。勝利した太子は「信ずべし貴ぶべき山」として信貴山と名付けたという。